故とうたいりう(後藤泰隆)の創立した劇団かかし座が発足してから,もうすでに50年の歳月が経ってしまいました。今は長男が三代目の代表になっておりますが,ふりかえってみると本当にいろいろなことがありました。
 とうたいりうは,子どもが大好きなあたたかい人柄でしたから,戦後の荒廃した世に生きているこどもたちに,すこしでも夢を与えたいという気持ちから,こぐま座というグループをつくって,影絵や人形劇などを各地の子ども達に見せることを楽しみにしておりました。
 NHKがテレビの実験放送を始めることになったとき,当時NHKラジオ放送局(JOAK)に勤めていた,私の義兄にあたる中道定雄さん(元NHK芸能局長。NHK開局以来「二十の扉」「とんち教室」「話の泉」など次々とクイズ番組を企画。当時は大変な人気番組となり、「クイズの王様」といわれた。元NHK理事。
現代どどいつ作家、中道風迅堂“ナカミチフウジンドウ)に“くもの糸”(原作芥川竜之介)の白黒の影絵の写真をもっていってみせたところ 「これはこれからのテレビに非常に向いていると思う」といって,テレビのほうの担当であった,藻寄準一さんに紹介してくれました。
 このようにして実験放送にかかわることができ,劇団かかし座を結成して,以来十数年間NHKの専属劇団として活動することになったのです。当時「影絵」というものが商売になるなどとは、誰も考えてはおりませんでしたが,白黒の絵からさまざまな研究を重ねながら,日本ではじめてのハーフトーンカラーシルエットの絵に変えていき,仕事として安定させたのでした。
 思えば「かかし座」という名前についても,ある日「かかし座にしたよ」といったきり,どうしてそういう名前にしたのか誰にも話をしませんでした。しかし,当時のとうたいりうの心境を考えてみると,私には手にとるようにわかるのです。
 昭和25,6年といえば敗戦からわずかしか経っておりません。東京はまだまだ焼野原にバラックを建てて住んでいる人達が多く,お米の配給制度も残っておりましたし,物資などは何もない,世の中全体が貧乏な時代でした。私たち夫婦もお金など全くなく,その上お腹にはもう長女(りえ)がおりましたから,成功するかどうかもわからない,影絵劇団などというものを,周囲の反対を押し切って始めるということは(当時影絵劇団というものはどこにもありませんでした)ほんとうに悲壮な気持ちだったとおもいます。
 とうたいりうは東北 宮城県の出身で,宮沢賢治が大好きな人でした。特に「雨にもまけず,風にもまけず…」の詩はたいへん好きでしたから,そのイメージを自分の決意とかかしに重ね合わせ「かかし座」にしたのだと思います。
 とうたいりうは心からこどもを可愛がる人でしたから,はじめて生まれてくる子どもに対して絶大な責任感を感じていたのだと思います。ただただ仕事を発展させることに没頭しておりました。そして年毎に大きくなっていく長女に時々いうのでした。「りえとはいつもいつも競争だったよなア」


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