昔から、海には柄杓を寄こせと舟を追って来る海坊主や、蛇の目をさした海おんな、それに提灯を吊りめぐらした船幽霊など、さまざまな化ものがいたようですが、壇の浦の合戦で亡んだ平家一門の亡霊も又、永い間そのあたりの人達を悩ましたと云うことです。科学知識の進んだ現代ではもうそんなことはないと思われる方もあるでしょうが、いやいやとんでもありません。怪奇なる事は更に規模を大きくした様に思えます。謎のバミューダ海域では過去に、数多くの船や飛行機が原因不明の消滅をくり返し、しかも最近ではその海底に巨大なピラミッドが発見されたと騒がれております。果てしなく広い海原のこと怪異譚は今後もきっと、種が盡きないことと思われます。ところで今回は、やはり昔の話をお伝えすることにしましょう。
昔、ある港町での話です。その町のあめ屋に何故か、毎晩おそく、あめを求めに来る女がいたのです。それもきまって、店をしめてさあ寝ようかと思う時分に必らず、トントンと店の戸をたたくのです。あめ屋の吉次が戸を開けてやると、青白い顔を、半ばそのザンバラ髪でかくすようにしながら、スーッと白い手で一文銭を差出すのです。
「あめを一つ下さい。」と云う、いかにも哀れなその姿に、つい
「いいとも、だけどあんた。こんなにおそくこられちゃあ、迷惑だから、来るんなら、店の開いているうちに来て下さいよ。」といって棒飴を一本渡してやるのですが、しかし、それからも店の開いているうちに来たことはありません。
「どうも変な女だな、それに気がついてみりゃあ、この小さな漁師町で、今まであの顔には見覚えがないものな、それもおかしな話だ。」
さすが人の好い吉次も、こう毎晩の事では、いささか気にもなったのでしょう。
或日のこと、
「よし、今夜は一つあの女のあとをつけて、どこの家のもんかはっきりさせて貰おう。」
と心に決めました。さて、その晩のこと、いつものようにやって来た女のあとを、そっとつけてみますと、何とこれが町を過ぎた舟着場から小舟に乗って海に出て行くではありませんか、
「さては、この町の者ではなかったのか?」
吉次も急いでその辺りにつなぎ止めてあった小舟を無断借用すると、すぐ女の舟を追いました。月あかりにきらめく夜の海を進み、やがて入江を出るとそこは、果てしなく広がる海原です。その海原を更に沖へ沖へと女の舟は進んで行きました。
「おかしな奴だ。この真夜中に沖へ出るなんて、まさか漁をするわけでもなかろうに?」
と不思議に思って、ひょいと女の舟の行きを見て驚いた。そこには不気味な一つの黒い影が浮かんでいたのです。難破船ではありませんか!その辺は漁師も恐れて近づかない、通称『地獄岩』と呼ばれる暗礁地帯だったのです。みるみる女の舟はその難破船に近づき、その黒い影の中へ吸いこまれて行きました。夜の海に、黒々と横たわるその難破船は、青白い月光に、その骨組を無惨にもさらけ出し、打寄せる波に、今も尚その胴体をゆさぶられ、ギシギシと悲痛な音をたてているのです。難破船に近づいた吉次が意を決してその中へ入ってみると、女の姿は見当らず、そのかわり、船底からかすかな人の声がするのです。よくよく耳を澄ましてきくと、それはどうやら赤ん坊の泣き声のようでした。
「まさか?」
とは思いましたが念のためと思い吉次がその赤ん坊の声をたよりに、真暗な船底へ降りてみますと、何とそこには、すでに息絶えて久しい様子の母親と、そのかたわらで、まだ元気に泣き声をあげている赤ん坊がいたのです。その有様に暫くは呆然として立ちすくんでいた吉次が、やがて、その母親の顔をのぞき見て驚きました。それこそ、毎晩あめを買い求めに来ていたあの女に間違いないのです。
「死んでいたのか!」
赤ん坊のまわりには飴の棒が何本かちらばっていました。吉次はそれこそ頭をがんと打ちのめされたような思いでした。子を想う母親の一念が、死を超えて生き続け、あめを求め続けたのに違いありません。しかも今夜のように救いを願い、自分を招き寄せたのです。
さっそく吉次はその女のなきがらを手厚く弔い、赤ん坊をひきとり、立派に育ててやったと云うことです。
|