演劇祭・横浜アートLIVEの8年
後藤 圭
(横浜アートLIVE実行委員会 事務局)

「総合演劇雑誌テアトロ」
No.750
2004年6月1日発行
発行:カモミール社
 編集兼発行人:中川美登利




横浜という街
かつてこの街には大劇場街がありました。桜木町から伊勢佐木町あたりに沢山の劇場が建ち並び、歌舞伎と新派の上演が毎日数知れず行われていました。
今は人口350万人を超える日本第2の都市です。当然政令指定都市ですが、区政選挙はありません。「横浜都民」という言葉が示す様に典型的なベッドタウンです。街のイメージはとても良く、沢山の観光客が訪れます。しかし歴史をひもとくと、戦後横浜の都心部は数年間にわたって進駐軍が接収していたのです。(マッカーサーの宿は横浜でした。)そのために戦前までなんとかその姿を保っていた大劇場街は、その姿を完全に消してしまったのです。(大震災と大空襲と接収のトリプルパンチでした。)そのせいかどうかはわかりませんが、現在市内の文化的なインフラは極端に遅れており、人口あたりの文化施設のシート数は全国でも最低の部類です。そして特色のある建物を建てようとするので、(多目的施設反対運動の弊害です。)汎用性の高い文化施設は皆無に近い状態です。

そのはじまり
私達はこの街で演劇の活動を続けていました。そしてだんだんとこの街での活動をもっと活発なものにしたいと願う人たちが集まりました。当時、市内の主な団体として活動を続けていたのは「社団法人横浜演劇研究所」「横浜演劇鑑賞協会」「横浜おや子劇場(当時)」「横浜アマチュア演劇連盟(当時)」「横浜ボートシアター」「劇団かかし座」などがありました。それぞれに活発な活動はしていましたが、皆活動のし辛さに困っていました。そこで「なんとかしなくていけない!何かを始めなくてはいけない!」と、意気投合したのがこの「横浜アートLIVE」なのです。「私達がここにいる!ここで芝居を作っている!演劇の様々な形の需要は横浜にもっとある!」という声を、私達はあげたかったのだと思います。

様々なトラブル
それぞれの組織は活発でしたし、目的は一つでした。しかし、地域で「演劇」だけをキーワードに関係者が集まって事を進めるという経験は誰にもありませんでした。始めてみると、とてもやっかいなことでした。それぞれの団体にはそれぞれの成り立ちと基盤、そして文化があります。そしていざ行政とコンタクトを取ってみると、私達は「陳情団体」というわけのわからぬ「好ましからざる団体」のレッテルを一発で貼られてしまうのです。なんとも幼稚な折衝をしたものです。同じ事を言っても「提言」ならばいいのだと後で聞いた話ですが、対行政初心者の私たちは知る由もなかったのです。

増え続ける参加団体
今年は市内14会場、137ステージ、観客総数21,000人を数える事が出来ました。しかし会場の確保には限界があるために、一昨年の開催あたりからは参加希望の方が明らかに多くなりました。今回の開催では10数団体にお断りをいたしました。うれしい悲鳴です。「横浜アートLIVE」の大きな特徴の一つに、「老舗の新劇団でも、アマチュアの高校生でも参加が可能。」という事があります。逆に言えば内容的には玉石混淆で、芸術的な価値の低いものも混ざっている訳です。私たちはこれを「良い事」として積極的にとらえて来ました。しかし参加団体が増え続けている現状を考えると、選考に近い事をせざるを得なくなっている事も事実です。これが今までの「横浜アートLIVE」を変える力になるかどうかは不明です。

やっとなんとか形が出来てきました
8年前に産声を上げた「市民による完全手作り」の演劇祭「横浜アートLIVE」は、驚くほどの過少予算で運営されながらなんとか開催の形を作って来ました。「演劇の花咲く街を夢見て」「東洋のエジンバラを目標に」と、合い言葉は華やかに、まだまだ道半ばどころか緒についたばかりです。市の行政や財団との関係もどうやら円滑になって来ました。行政内部に理解者も増えています。しかし世の中は変化を続けています。横浜市長も変わりました。市役所の部署の再編も進んでいます。施設の指定管理者制度も大きな影響があるでしょう。私たちは大変消極的ながら、「なんとか10回はやろうよ!」といいながら作業を続けています。

きっと私たちは、私たちの存在証明のためにこの催しを始めたのです。今、当面の目標である10回の開催を2年後に控え、もう一度考えてみる時を迎えているのだと思います。「演劇祭・横浜アートLIVE」が横浜にとって、演劇人にとって価値のある演劇祭に成長する事が出来るかどうかはわかりません。実行委員のメンバーにとっても荷の重い事ではあります。今後ともどうか「完全無農薬手作り実験的演劇祭」として暖かく見守ってやっていただきたいと思います。