関矢幸雄先生 ありがとうございました。
劇団かかし座代表 後藤圭
劇団かかし座が関矢先生にお世話になった作品は4作品で
す。「ミスターシャドウのおもちゃ箱/山んべ山っ子」「α博士の虹色手帳」「ミスターシャドウの仲間たち/いのちの水」と、4劇団参加による合同企画作品「青い鳥」になります。数は少ないかもしれませんが、本当に多くのことを学ばせていただきました。私が劇団かかし座を継がなければならなくなったのが1979年2月です。まだ23歳の若造でした。この時私はまだ学生でしたので本当にこの世界に関しては右も左も分からない中でのスタートでした。そうした中で関矢先生との出会いはとても新鮮で刺激的なものでした。当時、劇団風の子をはじめとする一連の関矢先生の作品を見た時の驚きは、忘れられません。当時、関矢先生の作品は賛否両論あったように思いますが、私は素晴らしいと思いましたし、何より観客からの支持は圧倒的なものがありました。
私はかかし座を継ぐにあたって考えていたのは「この時代に何が必要なのか?」という事でした。劇団かかし座は昭和27年のNHKTVの実験放送に参加する事で、翌年からの本放送にNHK専属劇団としてスタートしたという歴史があります。ですからある程度その経営は安定していたのかもしれないですが、逆にそのTVの時代を引きずり過ぎていたのです。あの時代はTVも民放や地方局が乱立し、それなのに幼児子供向き番組は少なくなり、その反面機材やビデオ、アニメの世界の進歩は目を見張るものがありました。あらゆる点で価値観が動いている時代でした。
その時代の中で、初期のブラウン管テレビの低い解像度と小さな画面を前提としたお茶の間向けの素材として重用されていたのがかかし座の影絵でした。ですからその時のかかし座の持つ技術力や、ノウハウだけでは到底時代に追いつかない、取り残されてしまう、と言う危機感を抱えていたのです。
そんな中で、新しい時代に向けてそれまでのかかし座のアプローチを良い意味で壊してくれる人が必要でした。そして関矢幸雄先生にご相談をしたのが始まりです。それから始まった作品の仕込みや稽古、直しの工程を繰り返す中でいろいろなお話を伺いました。「お客様は劇場というところに、何のために足を運ぶか分かるかい?」私が答えられないでいると、「動物園には人は動物を見にいくよね。劇場にはね、人は人を見に行くんだよ。だからね、舞台に上がる人は、必ずお客様よりも何かの点で優れていなければいけないんだ。」またある時は劇団員に「君たちは影絵が好きかい?」と、問いかけます。そして「君たちは影絵劇団に入っているのだから、影絵が好きなんだよね。人より何倍も影絵が好きでなければ、影絵劇団には入らないよね。」さらに、「だったらいくらでも努力はできるはずだね。もしここにそんなでもないと感じてる人がいるとしたら、その人は影絵が大好きになるように努力しないといけない。大好きになれば努力なんていくらでも出来るんだ。」実に正面から理解できるように、シンプルに力強いご指導をいただきました。
その中で私が今のかかし座を作って来る上で、とても大きな示唆をいただいた瞬間がありました。「かかし座は影絵の劇団なのに、なんで手影絵をやらないんだい?」私が手影絵の影の小ささ、種類の乏しさなどを言うと、「いいかい、手影絵をやりなさい。手影絵には大変な可能性があるんだから。」今から40年近く前の話です。でも、その時私はかかし座のなかで手影絵を位置付け、発展させることを心に決めました。最初は関矢先生との共同作業でした。関矢先生のかかし座で最初の作品だった「ミスターシャドウのおもちゃ箱〜」でも手影絵はかなり活用されていました。そして、かかし座の歴史の中でもっとも売れなかった作品の代表である「α博士の虹色手帳」は、かかし座初の全編手影絵作品であったと言っても良いと思います。それから長い時が流れ、かかし座の手影絵は徐々に評判をいただき、百種類以上のレパートリーを誇り、TVでも取り上げられ、海外のフェスティバル等にも20カ国以上出演をいたしました。一昨年の話ですが、かかし座の作品の中で年間で一番公演回数が多かったのは「Hand Shadow Show」だったのです。手影絵は、まさに現在のかかし座の基盤の一部を担っています。
関矢先生との直接のお付き合いは10年間ほどの短いものでしたが、その間に与えていただいたさまざまな示唆は、今でも私の中で息づき、現在のかかし座の姿のある重要な部分を、確実に作って来たのです。
関矢幸雄先生、誠に有難うございました。御冥福をお祈り申し上げます。私がそちらに行くには、まだ少し時間がかかると思いますが、お会いできる日を楽しみにしております。